日本人の興味を惹きつけて止まない戦国時代。
しかし名前は聞くけど何が起きた時代なのかはわからない。
そんな方に向けた、最低限知っておきたい戦国時代の合戦です。
厳選するのもなかなか難しいものですが、戦国時代の流れの中で欠かせないものを書いたつもりですのでご覧ください。
そもそも戦国時代はいつからなのか?
ざっくり戦国時代の始まりを言えば、
室町幕府の力が応仁の乱によって低下し、押さえつけられていた守護大名や各地国人などが各々力を付けるようになって領地を奪い合うようになった
のが戦国時代の始まりです。
室町幕府の権威失墜のきっかけとなったのが応仁の乱で、1467年の事。
そして、そのきっかけがあった上で、その後1493年に起きたのが明応の政変。
これは応仁の乱東軍の細川勝元の息子が起こした、いわばクーデター。
この政変により幕府の権力は二分され、本当に権威失墜のトドメとなります。
戦国時代の始まりは、応仁の乱であるとも言われ、また明応の政変であるとも言われます。
応仁の乱(おうにんのらん)
まず知っておきたいのが、応仁の乱。
合戦か? と言われれば微妙なところですが、合戦もありましたし戦国時代の始まりという意味で知っておきたいところ。
最低限の情報で書けば、
1467年に始まり、将軍家での後継者争いと権力の奪い合いが超拡大してしまって無数の勢力を巻き込み全国に波及し、11年間も続いた乱。
何しろ長い。
そして複雑でわかりにくい。
それでいて誰も得しておらず、大乱に巻き込まれた京都は見るも無残な有様に。
室町幕府の失墜を急加速させたのも頷ける馬鹿げた乱だったのです。
さてこの応仁の乱ですが、最大の問題点はそのわかりにくさと、派手さに欠けるところが挙げられます。
非常に重要な乱であることは間違いないのですが、簡単な気持ちで知ろうとしてもまず心へし折られます。
とはいえ、戦国時代を語る上では外せない乱であることは間違いないです。
川中島の戦い~武田信玄VS上杉謙信~(かわなかじまのたたかい)
次は、1553年から5回に渡って繰り広げられた武田信玄と上杉謙信の北信濃を巡る合戦である川中島の戦い。
ロマンの塊です。
ただ、一般的に語られる派手な川中島の戦いは第四次のもの。
なぜ川中島で戦うことになったかと言うと、信玄は破竹の勢いで勢力を増やしている最中で北信濃にも侵攻しました。
それを迎えうち、かつ関東管領に正式に任命されたり北条家を懲らしめに行ったりと多忙だった謙信が「もう信玄いい加減にしろよ」と本気出したのが第四次の川中島の戦いです。
第四次川中島の戦いで有名な逸話を二つほど。
1つは、武田軍の山本勘助と馬場信房が行ったとされる
「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」。
簡単に言ってしまえば別動隊での奇襲です。
山本勘助は実在しない説等ありますが、ここでは触れません。
2つ目は、乱戦の中で謙信が信玄目掛け単騎で馬を駆り、斬り付けたという逸話。
信玄は謙信とは気づかぬまでも咄嗟に軍配でそれを防ぎ、後にそれが謙信であったと知った――という逸話です。
かっこよすぎます。
ただ、上杉軍の総大将である謙信が、単騎で信玄に斬り付けに行くというのは現実的にはかなり難しいと思われますので、あくまでもロマン話として捉えておいた方が良い気はします。
肝心の合戦の結果は、双方3,000~4,000人の死者を出したものの、明確な決着はつかず。
後に天下人となった豊臣秀吉が川中島を訪れた際、川中島の戦いのことを
「はかのいかぬ戦をしたものよ(無駄なことしたもんだ、ぐらいの意味)」
と呟いたと伝えられています。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
次は、天下に織田信長というそれまではほぼ無名だった名前が響き渡ったあまりにも有名な合戦、桶狭間の戦いです。
当時織田家は信長の父である信秀が死去し、更に信長と弟の信勝とで内紛が勃発。それにより数々の裏切りなども起こり、本当に大ピンチ状態でした。
一方の今川軍は強大で、どんどんと勢力を広げている最中。
この桶狭間の合戦の見方としては、
油断すると痛い目に遭うよ
という事に尽きるかと思います。
目下急成長中の今川軍は、蟻でも踏みつぶすかの如く尾張に侵攻し織田家を潰す目論見でした。
織田軍も、ああ終わったな感はあったでしょうが、籠城するのではなくダメ元で奇襲を掛けることにします。
誰もが「織田信長」を舐めていたのでしょう。
そして奇襲の日。
たまたま昼過ぎに豪雨となりました。
今川軍は3万以上。一方の織田軍はなんとかかき集めた精鋭2千。
乾坤一擲とはこのことで、丘陵地帯の地の利、そして突然の豪雨という奇襲に有利な条件が重なり、今川軍の大軍の中から見事大将である今川義元の首を挙げることに成功するのです。
信長自身も、余裕をもってこの奇跡を起こしたわけではないでしょう。
やるかやられるかの本当にギリギリの精神状態の中で奇跡的に掴んだ勝利だったのだと思います。
しかし、豪雨の中での奇襲決行の判断であったり、籠城ではなく討って出る判断であったり、大軍の中から総大将を狙い定めて打ち取る情報統制の巧みさ、人を使うことの上手さ、そして天運。
それら全てが揃って初めて成し得た奇跡だと思います。
この大事件により、織田信長の名は一気に全国に知られるようになるのです。
本能寺の変(ほんのうじのへん)
そんな戦国時代を代表する戦国大名の一角である織田氏を一気に崩れさせる最大の事件がこの本能寺の変です。
織田氏は西を除いてほぼ東側を支配していると言っても過言ではない情勢でした。
先に豊臣秀吉を毛利氏のいる中国地方に派遣しており、あとは西側最大の勢力である毛利氏さえ屈服させれば……という情勢下でした。
秀吉はと言えば毛利氏とうまく戦い続けていたものの、若干苦しい。
ここは大将信長のご出陣を願いたい、と再三信長には出馬要請をしていたものを、しょうがない行ってやるか、と重い腰を上げたのがまさにこの本能寺の変が起きる辺りでの出来事。
本能寺の変を起こした明智光秀と信長との関係性は謎が多く、はっきりとはしていません。
ただ、長く信長に仕えてきて、信頼もされていた光秀にも当然出陣要請が下ります。
天正10年6月2日早朝。
光秀は夜に粛々と自らの軍団を進行させ、中国地方へ向かうのかと思いきや……
本能寺を襲撃し信長を殺害することになったのです。
つい先日、いよいよNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」がスタートしました。
謎多い明智光秀をどう描くのか、そして信長へ反旗を翻すまでの心の動きをどう描写するのか、大変興味深いところです。
山崎の戦い(やまざきのたたかい)
本能寺の変にて信長を討った明智光秀。
キレ者の光秀ですから、ただ無謀な計画で信長を殺したわけではありません。
西では秀吉が毛利と戦っており、まだ東にも上杉がいる。
秀吉のいない隙に信長を討ち、秀吉が戻ってくるまでに毛利、上杉などとも手を結べればそのまま天下人にも
そのように考えていたのかもしれません。
しかしここで驚愕の出来事。
そう、秀吉がめちゃくちゃ早く戻ってきちゃったのです。
本能寺での報を受けた秀吉は、すぐさま毛利氏と和議交渉を行いひとまず場を収め、すぐに京へ向かいとんでもなく過酷かつ速さで大軍移動したのです。
これが「中国大返し」と呼ばれています。
そして全ての計画が狂った光秀は、本能寺の変を起こしてからわずか11日後に、京都の山崎にて秀吉軍に敗北するのです。
山崎の戦いは、よく「天王山の戦い」とも言われます。
さてここで注目したいのがやはり秀吉の才能。
光秀は秀吉がすぐには戻ってこれない事を計算に入れて本能寺の変を起こしたであろうことも当然秀吉はすぐにわかったはず。
さらに光秀は毛利氏を巻き込んで自分を挟撃しようとするだろう、という事までも秀吉は見抜いていました。
その上で、義理堅い毛利氏とはすぐに和睦(和睦交渉を破ってまで自分を攻めてはこないだろうという読みを秀吉はしたものと思われます)、さらに万が一の部隊も残してからの電光石火の大返し。
残念ながら秀吉が一枚上手であったと言わざるを得ない出来事です。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
秀吉の天下になってから、関ヶ原までの間に僕としては欠かせないだろうと思うのがこの文禄・慶長の役です。
ざっくり言えば、日本列島を飛び出して朝鮮半島を手中に収めようとした海外征討です。
不思議なのが、なぜ秀吉が朝鮮半島を征服しようとしたのか? というそもそもの理由が明確にわかっていないこと。
諸説ありますが、ずっと領地などを与える事で人心を掴み続けて来た秀吉も、いよいよ日本列島だけでは分け与える土地が無くなって朝鮮半島の広大な領地に目を付けた、という説が僕的には推しです。
文禄年間に起きた文禄の役と、慶長年間に起きた慶長の役二つを合わせて文禄・慶長の役と呼び、朝鮮の役とも言われます。
この壮大な海外征討を一言で言うならば、カオスでしょうか。
序盤こそ破竹の勢いで朝鮮軍、明軍を打ち破っていくのですが、やはり日本とは勝手が違います。
寒さや飢えに苦しめられ、戦意は低下。
こりゃたまらん、と一旦停戦したのが文禄の役のおしまいです。
その後、再び講和交渉が決裂し始まったのが慶長の役。
数十万の兵力を投入したものの、最後は秀吉の死によって突如終結し、豊臣政権にとってはただ疲弊し、かつ多くの不安要素を産み出す結果に。
後に関ヶ原の戦いで西軍となる石田三成も、この役ではとても重要かつ超絶有能な働きをしているのですが、現場で働いたわけではなく兵や船団輸送がメインであり、かつ秀吉の右腕として朝鮮半島で起きたさまざまな出来事を秀吉に報告する役目もありました。
これが後に死に直面するほどの地獄を朝鮮半島で見てきた諸将から反感を買う原因にもなり、関ヶ原の戦いにも繋がっていくのです。
もう一つ注目すべきが、徳川家康です。
家康は九州まで予備兵を送り込んではいるものの、朝鮮半島へは行っていません。
つまり、疲弊しきってしまった西国大名や豊臣政権に比べ、元気満々の状態で家康は乗り切ったわけです。
さあ秀吉もいなくなった。こっちは何の痛手も負っていない。次はワシの番じゃ。
家康が天下を狙う気になるのも当然な気がしてきちゃいます。
関ヶ原の戦い
さて関ヶ原。
非常に有名ですし、名前の響きもカッコイイ関ヶ原の戦いですが、これまた非常に複雑です。
僕は司馬遼太郎氏の「関ヶ原」を何度も読むほど関ヶ原好きですが、やはり何度読んでも難しいです。
最低限で書くならば、
なんとしてでも豊臣政権を完全に潰したかった家康があらゆる手を使って引き起こした壮大な茶番
でしょうか。
そもそも家康も表向きは「豊臣家の為」という大義名分を掲げてあれこれ動くのですが、この辺りのズル賢さが「狸」と呼ばれる所以でしょう。
本当に家康はあらゆる手を使い合戦へと丁寧に導いていくのです。
そしてその敵役としてキャスティングされた石田三成の不幸。
さて戦いの行方はいかに。
この戦いを起こす為に家康が腐心したのは間違いないのですが、確実に勝てる、と思っていたわけではありませんでした。
事実、西軍も東軍も10万人近い兵力を揃え、本当にどちらに転んでもおかしくない戦力差でした。
しかし若い石田三成に比べ、百戦錬磨の古狸な家康はやはり一枚上手。
西軍に属していた諸将に裏工作をし、裏切りを誘発。
特に有名で西軍にとって致命的となったのが、1万5千の兵を率いて松尾山というイイ位置に陣取っていた小早川秀秋の裏切り。
この件のイメージで小早川秀秋は悪く思われがちですが、先に述べた慶長の役の時には総大将を任されたりもしているのです。
更に西軍の主力であった毛利家の軍団が動かなかったことも西軍の負けを決定的なものとしました。
小早川秀秋の裏切りと、毛利家のダンマリで、西軍には10万近い兵力がありながら半分ぐらいしか実際には戦闘に加わらなかったとも言われています。
小早川秀秋による裏切りも、毛利家のダンマリも、当然家康の根回しで毛利方に内通者がいたのです。家康さん流石過ぎます。
こうして関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝ちで幕を閉じました。
これで晴れて天下人!
とはいかないのが難しいところ。
なぜか?
それは、西軍も東軍も、表向きの大義名分は共に「豊臣家の為」だったからです。
家康は、
「秀吉様の意志を継いで豊臣家の為にあれこれ働いているのに石田三成が反抗するかのような動きをしとる。怪しい。ここは一つ、豊臣家の為にも征伐じゃ!」
という言い分。
一方の三成は、
「何を嘘を並べて偉そうにしているのかあの狸は! 真に豊臣家を思っていればあんな横暴で図々しいふるまいばかりするはずがないではないか! 征伐ぞ!」
という感じ。
もちろん、真の狸は家康です。
そして家康の思惑通りに起きた合戦。
しかし、豊臣家の為にと起こした戦いなのに、勝ったからと言って「豊臣ぶっ潰す」なんて言える訳がありません。
豊臣家の為だからと付き従ってくれた多くの大名達が一気に敵になっちゃいますからね。
このような背景があるからこそ、家康としては最後の仕上げの戦いが必要だったのです。
そして起きたのが大坂の陣です。
大坂の冬の陣・夏の陣
豊臣家の為として勝った関ヶ原の戦いの後、家康の頭の良さとずる賢さはもう閉口しちゃうレベルです。
上手く豊臣家とも仲良くするよう見せかけながら、じわじわと様々な細かい手を打って徳川家の権威を上げていき、同時に豊臣家を弱体化させていきます。
派手にはやらず、ジワジワと、巧妙に。
次第に世間も「次の世は徳川様で決まりじゃなぁ」という雰囲気に満ちていき、世間だけでなく多くの大名も同じように思うようになっていきました。
そして大坂の陣が始まるきっかけとなるのが、豊臣家が再建した方広寺というお寺の、鐘に彫られた銘文。(お寺で衝く鐘の模様とでも思っていただければよいかと)
その鐘には、『国家安康』、『君臣豊楽』とありました。
これに対し徳川家は、
家康の名前を二つに分断して呪ってんのかコラ。しかも豊臣家を君として繁栄とかいい加減にしろ。
と、とんでもない言い掛かりをつけるわけです。
察しの良い方はわかるでしょうが、要はもうなんだってよかったのです。
家康としてはなにがなんでもイチャモンつけて、合戦に持ち込みたかったのです。
そうして起きたのが大坂冬の陣。
多くの大名が「こりゃもう流れ的に徳川だろ」と判断する中、豊臣方についたのが真田幸村や、後藤基次、毛利勝永などの猛将達でした。
この大坂の陣は一旦休戦し再び夏に起こります。
真田幸村の真田丸が大いに徳川家を苦しめたのが最初の冬の陣。
しかし休戦した際に真田丸は壊されてしまい、更に大坂城の堀も埋められてしまうというまたまた家康のズル賢い作戦が炸裂します。
若き君主、豊臣秀頼が自らの意志で戦えたのであればもしかしたら豊臣方が勝っていたかもしれません。
しかし、秀頼の母である淀殿の支配力の方が遥かに強く、幸村をはじめとした猛将達も思うように力を発揮できなかったというなんとも歯痒い裏事情もあったりします。
そんなバラバラな内情の豊臣方が、老練な家康率いる徳川方に勝てるハズもなく……。
最後には秀頼も淀殿も、燃えゆく大坂城の蔵の中で自害して果てることに。
この戦いで戦国時代は終わったと見ることもでき、ここから長く続く徳川幕府の時代が始まっていくのです。
まとめ
長くなってしまいましたが、最低限知っておきたい戦国時代の合戦、楽しんでいただけたでしょうか?
もっと詳しく知りたくなった方の為に、いつか戦国時代の全容をざっくり知れる小説も紹介したいなと思っています。
現代でも尚人々を魅了して止まない戦国時代。
知れば知るほど深く、面白く、人間臭く、教養に満ちています。
ぜひ、この記事をきっかけにご自身でも気になった武将や合戦、調べてみて下さい。
そこはもうロマンに満ちた世界が延々と広がっていますので。
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