あなたの好きな戦国武将は誰でしょうか?
このブログでもいくつか戦国時代関係の記事を書いてきていますが、僕は上杉謙信、武田信玄、あとは本多忠勝、井伊直政あたりが特に好きです。
そして、戦国武将を盛り上げる大切な要素として、あだ名が付けられている武将も数多く存在します。
それは戦国時代当時に実際に呼ばれていたのかは不明であるものもあり、ほとんどが後世になって付けられたものなのですが、それでもその武将を言い表す上では最高にかっこよく機能します。
そこで今回は、最低限有名な武将のあだ名だけでも覚えておきましょう、という記事です。
越後の龍・上杉謙信と、甲斐の虎・武田信玄
まずは川中島合戦で戦いあった上杉謙信と武田信玄。
川中島合戦については↓記事もご参照下さい。
この謙信と信玄は、お互い有名でかつ強大な力を持っていたことから、それぞれ龍と虎に例えられました。
実はこの「龍虎」はどちらにも使われており、あくまでも「強く競い合った二人」に対で使われる言葉の為、どちらが龍か、という決まりはないのですが、一般的によく聞くのは
越後の龍・上杉謙信
甲斐の虎・武田信玄
かと思います。
余談ですが、戦国武将というのはころころ名前が変わります。
謙信は元は長尾景虎という名前であったこともあり、冷静に考えたらどちらかというと謙信の方が虎に相応しいような気も……。
日本一の兵・真田幸村
続いては好きな方も多いであろう真田幸村。
なかなか苦労の多い生涯を送った真田幸村の、最後の大花火とも言うべき合戦が大坂夏の陣。
この合戦での終盤、幸村は家康の本陣近くまで切り込み、家康も肝を冷やしたと言います。
そして夏の陣で幸村は討ち取られることになるのですが、この時の活躍ぶりから幕府だけでなく様々な大名からも評価され、日本一の兵(ひのもといちのつわもの)とまで呼ばれるようになりました。
NHKの大河ドラマ、『真田丸』では、遠藤憲一さん扮する上杉景勝がこれを叫ぶシーンがありました。
大坂の陣あたりの真田幸村の境遇などを知っていると、「もっと万全の態勢で幸村が戦えていたら歴史は変わっていたのかも知れないのに」と思っちゃいます。
大六天魔王・織田信長
続いては戦国時代の顔、織田信長です。
織田信長のあだ名で有名なのが、大六天魔王。
信長といえば苛烈な事をいくつもしてきたことでも有名で、世間では「天魔」や「魔王」などとも呼ばれていたのだとか。
しかし本人が自分でそのように名乗った記録はなく、唯一残っているのが宣教師ルイス・フロイスが、信玄と信長の書状でのやりとりをした際に、信長が自らの署名を「大六天魔王」と書いた、とあるのです。
大六天魔王というのは、仏教における欲界の六欲天の最高位にある他化自在天のことで、仏教だけでなく他宗教を討ち滅ぼしちゃうような恐ろしい魔王です。
なるほど、叡山焼き討ちなどをしてきた信長のイメージと合うわけです。
それゆえに、今なお信長のあだ名として残り続けているのでしょう。
海道一の弓取り・徳川家康
お次は徳川幕府から始まり長らく続いた江戸時代の基礎を作った徳川家康。
タヌキとしても有名ですが、戦振りの上手さから豊臣秀吉からは
海道一の弓取り
と評されました。
ここで言う海道とは、東海道のこと。
余談ですが家康の前には、今川義元も同じあだ名「海道一の弓取り」と呼ばれていました。
家康と今川義元は共に東海道に拠点を置いていましたから。
どうにもあまり良くないイメージが付いてる今川義元ですが、武将としての器量は凄かったのです。
家康は、戦振りは上手いのでしょうが、僕の中でのイメージはやはり関ケ原前後のねっとりとして執拗な謀略を好む狸爺なイメージです。
島津家に付いた伝説的あだ名・鬼島津
続いては個人的にも推したい島津家の面々。
島津といえば九州です。
そして、島津家が真に恐れられるようになったのは朝鮮の役から。
ここで7,000の少ない兵数で、30,000以上の敵を相手にし、島津家史料によると実に38,717人もの敵兵を討ち取ったのだとか。
この時のあまりの島津家(指揮は島津義弘)の怖さに、現地では鬼石曼子(グイシーマンズ)、
つまりは鬼島津と呼ばれ恐れられたのだそうです。
僕は記憶が確かなら池宮彰一郎氏の著書、『島津奔る』で読んだと思うのですが、まぁ痛快でした。
そして関ケ原の合戦では決死の中央突破も行うとんでもないクレイジーな島津家。
本当にかっこいいです。
独眼竜・伊達政宗
戦国時代のイケメン枠筆頭の伊達政宗。
幼少期に疱瘡を患った影響で右目を失明し、隻眼の武将としても有名です。
そんな伊達政宗に付けられたあだ名が、独眼竜。
これは中国の猛将である李 克用(りこくよう)が独眼龍と呼ばれていたことになぞらえたもの。
政宗と言えば武勇だけでなく政治手腕も素晴らしく、文武両道としても名高い武将。
産まれる時代さえ違っていれば歴史は変わっていたはず、と言われるほどの人物です。
ただ、それは政宗に限った話ではなく、それこそ謙信と信玄だって産まれる時代というよりは産まれる場所さえ違っていれば歴史は大きく変わっていたはず。
たらればですね。
まとめ
本当はもっと紹介したいところですが、最低限と言えばこのあたりでしょう。
最後にさらっと、他武将のあだ名も載せておきますので興味があれば眺めてみて下さい。
相模の獅子・北条氏康
北条家の勢力を広げた北条氏康。
相模の獅子、または相模の虎とも呼ばれました。
個人的に小田原城の堅牢さと籠城っぷりが好きなので、この北条氏康も好きです。
雷神・立花道雪
戸次鑑連(べつきあきつら)の方が正しいかもしれませんが、豊後の武将立花道雪のあだ名が雷神。
立花道雪の有名な逸話で、雷を切っちゃった逸話があります。この時雷を斬った刀は「雷斬」と呼ばれ、更に道雪もその逸話からなのか、雷神と称されることに。
立花家と言えば女性武将の誾千代も有名。ゲームでは必ず雷属性にされるのもその影響でしょう。
井伊の赤鬼・井伊直政
井伊直政と言えば家康に仕えた徳川四天王としても有名です。
家康はかなりの武田家ファンで、様々な事を武田家のマネをしているのですが、その一つが武田家の猛将、山県昌景の行っていた軍装を赤で統一する「赤備え」。
山県昌景の赤備え部隊は当時最強とまで言われ、赤備えの部隊はそのまま最強部隊の代名詞となっていました。
それを、家康は井伊直政にもやらせたわけです。(余談ですが真田幸村もやってますね)
そして井伊直政が赤備え部隊で活躍するにつれてその名前は轟き、「井伊の赤備え」と呼ばれ畏怖されることとなり、更にはその井伊部隊の恐ろしさから「井伊の赤鬼」とまで呼ばれるようになったわけです。
すみません、井伊直政好きなんでちょっと長くなっちゃいました。
美濃の蝮(まむし)・斎藤道三
戦国時代の中でも屈指の梟雄として有名な斎藤道三。
下剋上大名としても有名で、油売りからコネだけを頼りに悪謀を巡らせ徐々に身分を上げていき、最後には美濃の国を手中に収めるのですが、その手口の狡猾さから国外からも「マムシ」と恐れられることに。
やり口はめちゃくちゃですが、そのぐらいハングリーでないと国盗りは出来ない、ということです。きっと。
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